2014年1月31日金曜日

パレンバン訪問(その2): カンポン・カピタン

デジカメを盗まれた後、乗合に乗ってムシ川にかかるアンペラ大橋を渡って、対岸へ。対岸にはカンポン・カピタンという名前の華人系の人々が古くから住む集落がある。話を聞くと、どうもこちらのほうが市外よりも歴史が古く、パレンバン自体がもともとはカンポン・カピタンから始まったといってもよいようなのである。

細い道を川のほうへ向かって入って行く。質素な家が立ち並び、家の周辺は湿地のような景観である。その一角に、カンポン・カピタンはあった。




カンポン・カピタンに住んでいるのは華人系だけではない。マレー系の人々も住んでいるが、けっこう前の代から住んでいるようである。ここにいると、川から風が吹いてきて、とても気持ちがよい。しかし、川から水があふれて洪水となるのは茶飯事のようで、家も、高床のような構造であり、洪水と共存した生活になっている。

この長屋の向かいには、漢字で書かれた小さな祠が建てられていた。南無阿弥陀佛と書かれている。


さらに、川と反対方向へ行くと、別の長屋のような集合住宅が集まっているところへ出た。ここがカンポン・カピタンの中心と言ってもいい場所のようだ。カピタンというのは、華人系住民の長を指す名称だが、ここでのカピタンは「蔡氏」のようだ。




上の3枚のうち真ん中の写真がカピタンの家。この辺では最も古い建物である。ここを守っているのは、蔡氏の13代目とのことである。多くの親族はカンポン・カピタンを離れ、ジャカルタやシンガポールなどで活躍し、富豪になった者もいる。

カピタンの家の隣が、中国寺院になっている。



中国寺院の隣のカピタンの家には、歴代カピタンの位牌の置かれた廟があった。歴代カピタン一人一人に線香を立てる灰置きがあるはずなのだが、1個を除いて、すべて紛失したという話である。誰が盗んだのかはまだわかっていない。


これら中国寺院や廟の裏が、ここを守る蔡氏13代目の家族が住む、広い長屋のような空間である。



周辺では、子供たちの歓声がこだましていた。子供たちがアイスキャンディー売りに群がっている光景がなつかしい。



カンポン・カピタンに来る前に見た、インスタントな薄っぺらな文化とは相当に異なる世界が、ムシ川の対岸にあった。

ムシ川にかかるアンペラ橋は、夜になると様々な色にライトアップされる。カンポン・カピタンから眺めるイルミネーションは、予想以上に見事だった。あまりにも見事だったので、帰りは歩いてアンペラ橋を渡った。とても気持ちのいい散歩であった。






2014年1月29日水曜日

パレンバン訪問(その1)

インドネシア34州のうち、まだ行ったことのない州が5つある。そのうちの一つ、南スマトラ州パレンバンへ思い切って行ってきた。実質わずか1日という短い滞在だったので、いろいろ見えていないところもあるが、とりあえず、書き留めておきたい。

なお、パレンバンの食べ物編は、追って、食べ物ブログ「食との出会いは一期一会」に書きたいと思う。

パレンバンに着いたのは1月24日夜。片側三車線の広い道路を走る車はまばらだ。道路を渡るには、何が何でも歩道橋を渡るしかない。ここの歩道には、何も置かれていない。何も置かれていない本当の歩道。歩道の下は暗渠排水路となっている様子。

しっかりと整備された道路と夜の人通りの少なさから受ける印象は、「パレンバンは真面目な町」というものだった。夜中に小腹がすいても、食べに行くところがない。

夜のパレンバンに、大モスクとその前にある噴水が光っていた。この噴水は、パレンバンで東南アジア・スポーツ大会(SEA Game)が開催されてからは、SEA Game噴水と呼ばれているそうである。



一夜明けて、街には喧騒があふれていた。道路を通る車の台数は多く、裏道はあちこちで渋滞している。通りには店が立ち並び、市場は人の波で活況を呈していた。

さっそく、前の晩に見た大モスクへ行ってみた。このモスクは、表側が近代的な建物になっているが、裏側は古い建物が残されている。その古い建物の形がユニークなのだ。鐘楼のような高い建物が一番古く、隣の建物の屋根には黄色のヒレのようなものが付けられている。これは龍をかたどったものなのだろうか。


大モスク(Mesdjid Agung)は1748年、パレンバンのスルタンであるマフムッド・バダルッディン1世によって建てられた。建立に当たっては、地元華人たちの支援が大きかったのかもしれない。それが何となく中国風の屋根の形に反映されているように見えるのである。

大モスクから歩いてすぐのところには、スルタン・マフムッド・バダルッディン2世博物館がある。どんな博物館なのか、中に入ってみた。


パレンバン周辺は、4~14世紀頃に栄えたスリウィジャヤ仏教王国の中心であるが、それに関する記述や展示は極めて少ない。スルタンの博物館ということで少ないのはやむを得ないのかもしれないが、石器時代の次にそれと同等の小さな扱いだったのがちょっとびっくりした。

展示物の中に「古い書き物」というものがあり、どれぐらい古いかと思ってみてみると、1800年代のカガナ文字による書き物であった。1800年代の書き物が「古い書き物」なのだ・・・。あたかも、パレンバンの歴史は、スルタンの時代から始まったかのような展示物であった。スルタンの時代以前は先史時代であり、スリウィジャヤ仏教王国の存在には触れるものの、基本的にパレンバンの歴史は実質上スルタンの時代から始まったかのような印象を受ける展示だった。

博物館から少し川岸へ歩いたところで、船を雇い、ムシ川に浮かぶクモロ島という島へ行ってみた。この島には九重塔があり、土日はたくさんの市民がやって来る観光地である。

島に着いて、中国(風)寺院があった。赤や黄色で塗られ、そこに描かれる絵は伝統を感じさせるものではなく、ささっと書いたような稚拙な絵だった。寺院自体は1960年に建立され、2010年にこのケバケバしい色で改築された。


九重塔はその先にあった。2006年に建てられたものだが、建物自体は、まるで巨大な張りぼてのような建物だった。もちろん、そこに描かれている絵は稚拙そのもので、何ら、寺院らしき厳かな雰囲気を感じない。

そう、このクモロ島の寺院も九重塔も、一言で言って、安っぽいのである。文化のかけらも感じることができない。

こんな場所でも観光地となり、休みの日には大勢の市民が訪れ、それを目当てにしたヤシジュース屋が何軒も店を出すのだ。

雨がぱらつくなか、クモロ島を後にして、博物館近くの船着き場へ戻る。船着き場とクモロ島の間には、インドネシア国内最大の国営尿素肥料工場があり、船上でもアンモニアの匂いが相当にきつかった。


船着き場からベチャに乗って、ンペンペを食べて、ぐるっと街歩きをした後、ムシ川にかかるアンペラ橋を渡って、対岸へ行ってみることにした。橋を渡る乗合をさがして、乗り込んで「さあ出発」と思ったとき、乗合の前座席のおじさんが「あんたのカバンからさっき何か盗まれたよ」というので、「えっ?」と思ってカバンを探ると、ポケットに入れておいたお古のデジカメが消えていた。おじさん曰く、犯人は3人組の若者だったようだ。

ガクッと気落ちしたまま、乗合で橋を渡り始めた。


(その2に続く)


2014年1月22日水曜日

インドネシア語雑誌でラーメン特集

インドネシアでも、ジャカルタやスラバヤを中心に広がってきたラーメン・ブーム。とうとう、インドネシア語の食品関連雑誌Yuk Makan.comの2014年1月号は、大々的にラーメン特集を組んだ。



同誌のウェブサイトは以下だが、残念ながら、ウェブ上で雑誌を読むことはできないようだ。

 YukMakan.com (インドネシア語のみ)

ラーメン特集は2部構成になっていて、第1部が日本のラーメンの紹介、第2部が「編集部の選んだラーメン店」となっている。

「中国で生まれ、日本で有名になった」と題された第1部の日本のラーメン紹介は、ラーメンの歴史から説き起こされた後、日本各地のラーメンの特徴を紹介している。

北海道では、釧路ラーメンは「スープはそれほど濃くなく、麺は少なめで滑らか」、北見ラーメンは「スープは玉ねぎベースで醤油味が効いている」、旭川ラーメンは「縮れ麺」、札幌ラーメンは「日本人の最も好きなラーメン。スープはみそ味だが、初めて紹介されたときは塩味だった」、函館ラーメンは「スープは塩味で、中国古来の雰囲気あり。ラーメンの上に粉チーズをたくさん書ける店がある」、といった具合である。

こんな調子で、東北では、仙台ラーメン、酒田ラーメン、米沢ラーメン、喜多方ラーメン、白河ラーメンが、関東では、東京ラーメン、サンマー麺、、油そば、とんこつ醤油ラーメン、八王子ラーメン、佐野ラーメンが、簡単なコメントと共に紹介されている。

信越・新潟では、新潟ラーメン、長岡ラーメン、富山ブラックが、東海では、高山ラーメン、台湾ラーメン、ベトコンラーメン(一宮)が、近畿では、京都ラーメン、神戸ラーメン、天理ラーメン、和歌山ラーメン、播州ラーメン(西脇)が紹介されている。

中国・四国では、讃岐ラーメン、岡山ラーメン、尾道ラーメン、広島ラーメン、徳島ラーメン、鍋焼きラーメン(須崎)が、九州では、博多ラーメン、久留米ラーメン、熊本ラーメン、宮崎ラーメン、鹿児島ラーメンが紹介されている。

それにしても、編集部がこれらを全部踏破して、食べ歩いたとは思えない。これらのタネ本があるのだろうか。

日本全国のラーメン紹介の後は、スープの味(醤油、豚骨、塩、味噌)の違いについて解説している。

第2部は、同誌の編集部や愛読者が好む、ジャカルタのラーメン屋が合計10軒紹介されている。そのなかには、在留邦人にはお馴染みの店の名前がいくつも出てくる。10軒中7軒に豚さんマークが付けられている。

それぞれの店のラーメンの紹介だけでなく、餃子や鶏唐揚げなどのサイドディッシュに関する記述も多い。おそらく、インドネシア人のとくに家族連れは、ラーメンのみを食べるのではなく、こうしたサイドディッシュを、メインとしてのラーメンの付随品、というよりも、別料理として注文しているように見受けられる。

この雑誌は一般誌ではないので、広く情報が行き渡っているとは思わないが、こんなに大々的にインドネシア語の雑誌がラーメン特集を組んでいること自体がビックリである。

何せ、日本へ旅行する目的がラーメンを食べることにあるというインドネシア人観光客がいるご時世である。日本のご当地ラーメンを食べ歩くツアーなどをやったら、インドネシア人観光客は大喜びするだろうし、日本の地方にとってもいい刺激となるのではないだろうか。

そうしたご当地ラーメンのなかで豚骨ベースではないところでは、ハラル認証を取って、ハラル・ラーメンを広める夢を描き始めたところもある。

以前のブログでも取り上げたが、インドネシアの各地で、インドネシア人自身が見よう見まねで、インドネシア人の味覚に合ったラーメンを提供し始めている。もちろん、日本人からするとちょっと受け入れがたいような味付けのものもあるのだが。

ともかく、インドネシアからのラーメンへの関心の高まりは、我々日本人の想像以上にアツくなってきていることは確かである。


*ラーメン特集のある「YukMakan.com 2014年1月号」を購入されたい方は、ウェブサイト上から申し込むか、以下へメールまたは電話で問い合わせてください。ジャカルタ首都圏はRp. 25,000、それ以外はRp. 30,000です。

 Email: contact@yukmakan.com
 Tel: +62 21 653 00 883 / 929 / 764

2014年1月16日木曜日

iPhone 5Sを使い始めて(独り言)

今回の一時帰国中に、日本で思い切ってSIMフリーのiPhone 5Sを購入した。64GBのゴールド。日本ではOCNの1ヵ月980円という安価なナノSIMを入れて使っていた。データ通信のみ、デザリングはできないタイプである。

そして、日本国内用のブラックベリーを通話専用とすることにし、パケホーダイなどの契約を解除してから、インドネシアへ戻ってきた。

昨日、家の近くのXLのサービスセンターへ行って手続をした。これまでポケットWifiに入れて使っていたSIMをナノSIMにしてiPhone 5Sに入れてもらった。1ヵ月当り最大5.1GB、価格は99,000ルピア(約850円)である。このセッティングで、なんと通話可能、デザリング可能。インドネシアは、無料Wifiの場所が多いので、これで十分に間に合いそうだ。

ちなみに、インドネシアではまだ5Sは販売されていないが、間もなく販売されるという話である。

さっそく、Facebook、Twitter、WhatsApp、LINEなどをiPhone 5Sにまとめ、最後に、Blackberry Messenger (BBM) もiPhone 5Sへ移行させた。結局、インドネシアで使っているブラックベリーも通話とSMSのみ使う形になった。

というわけで、データ通信用にiPhone 5S、通話+SMS用にもう1台、という組み合わせとなった。もう1台はブラックベリーである必然性はもうないので、シンプルで電池の長持ちする携帯に変えてもいいとも思う。

今朝、試しにiPhone 5Sから東京の自宅へSkypeしたら、これまでで一番、画像も声もはっきりしていたということだった。これまでも、MacBookやiPadからSkypeしていたのだが、技術進歩は想像以上に進んだということなのだろうか。

iPhone 5Sを持ち歩くことで、デジカメを持ち歩かなくなった。iPadを持ち歩かなくなった。ノートを何冊も持ち歩かなくなった。街歩きをするときの荷物がとても軽くなった。

iPhone 5Sを使い始めて、今までとは何かが変わってきたような気がする。料理の写真を撮ると、これまで使っていたデジカメよりも何となくきれいに写ってしまうし、それを瞬時にSNSへアップロードすることができる。その時々にアップロードしたものへの反応が、時間がたってアップロードしたものよりもずっといいのが不思議である。

WhatsAppでも、LINEでも、Skypeでも、地理的な距離とそれに付随するコストを考えることなく、軽々とそれを乗り越えて、地球上のどこにいても、インターネットにつながってさえいれば、いつでもコンタクトできる。発信できる。誰がどこで何をしているのかがリアルタイムで分かる。少し前には夢物語だったようなことが、すでに日常の現実の中にある。

だからこそ、インドネシア、アジア、東京、福島、そのほかの世界、これらがうまくつながりながら、新しい何かを起こしていける環境が整いつつあると感じるのである。ブラックベリーを使い始めた時にはさほど感じなかったが、iPhone 5Sを使い始めて、よし、新しい何かを創るために動いてみよう、と無性に思い始めている今日この頃である。

2014年1月13日月曜日

とねりこ made in Fukushima

先週、福島へ行っているときに、すてきな雑誌と出会った。のはら舎という、福島の小さな地元出版社が発刊した『とねりこ』という雑誌である。リンクページをご覧いただき、是非、皆さんにも購読していただきたい。

 とねりこ




「ちいさくても思いたかく」という副題がついている。そこに、この雑誌を出版した側の思いが深く込められている。

とねりこのページには、創刊にあたって次のようなメッセージが書かれている。


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 東日本大震災と原発事故から、間もなく丸3年を迎えようとしています。現在、メディアで取り上げられる関連ニュースはめっきり減り、時間とともに風化していくことが危惧されます。そうしたなか、いまの福島の人々の姿や声を伝える使命を持って、「とねりこ」を創刊します。今後10年、20年と続くであろう原発震災との闘いを前に、いま起きている出来事を、いまの時代を生きる私たちが、歴史の証人として記録することが大切だと考えました。

 とねりこは「いのちの木」と言われ、野球のバットの材料になるほど強く、しなやかな木です。激変する環境のなかで、多くの人々の声を聞き、伝えることで、1本の木が林になり、やがていのちの循環を支える森になるよう、スタッフ一同願っています。

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福島から発信し続けることの重要性を体現した雑誌である。そして、それをがんばりすぎず、しなやかに継続していこうという意思が見える。福島に住む地元の人間が、自ら主体的に、しかし息長く発信を続けていくこと、そしてそれを、福島の外にいる人々が息長くキャッチし続け、見守りながら、他の方々へ発信していくこと、大したことではないかもしれないが、重要なことだと思う。

創刊号のなかに、東北学を提唱してきた福島県立博物館長の赤坂憲雄氏の言葉がある。少々長いが、自分の備忘のためにも、以下に引用させていただく。


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震災のあとに学んだこと

赤坂憲雄


震災のあと、なんだか、とても多くのことを学んできた気がする。

一生分の涙はとっくに使い果たしたはずだった。でも、この間は久しぶりに、夜更け、ひとしきり声を殺し、泣いた。その前の日の午後、なにひとつ残っていない駅舎の跡に立って、ひとりの少女が語ってくれた家族の物語を思い出していたのだった。

諦めたときに、すべてが終わることも知った。それでも、ほんのまれに、落ち込むときがある。顔には出せない。そんなとき、かたわらに元気な仲間がいてくれると、助かる。どん底をやり過ごし、また、少しだけ前を向いて、歩を進めることができる。思えば、そんな仲間のほとんどは、震災のあとに出会った人たちばかりだ。

世界はすっかり変わってしまった。でも、後ろ向きになったら負ける。意地でも前を向いてみせるしかない。そして、今度はこちらが世界を変えてやるぞ、と心に決める。世界はどうやら、待っていても変わらないようだ。ならば、こちらが変わるしかない、世界が変わるために働くしかない、と思う。

それでは、なにをなすべきなのか。たとえば、弱き人々を基準として社会をデザインし直すこと。あえて経済効率に抗い、隙間や無駄をあちこちに作ること。やわらかく壊れる方法を学ぶこと。眼の前に横たわる境界の自明性を疑うこと。縮小と撤退のシナリオを、あくまで前向きに受け入れること。三十年後への想像力を鍛えながら、いま・ここに生きて在ること。そんなことを、ひとつでもふたつでも、ささやかに実践に移してみる。そこから、何かが始まるはずだ。

勝てずとも、負けない戦いを。それぞれの場所から、きちんと引き受けていきたいと思う。

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赤坂氏の著作はいろいろと読んできたが、上記はとても分かりやすい言葉で書かれている。しかも、福島の教訓から忘れてはならない姿勢を思い起こさせてくれる。

あのとき、何かが終わり、何かが変わる予感がした。政府に頼るのではなく、自分たちで生き抜いていかなければならないと心底思った。自分の子供の世代、孫の世代、その先の世代に対する想像力を求められた。

そして、あれから3年、自分たちは自ら変わろうとして動いてきたのだろうか。

福島からの発信を受けとめ、それを再発信していくということは、あのときの自分や子孫のことを思い起こし、自分から変わり、生き抜いて、少しでもましな未来を子孫へつないでいくために働き続けることを、深く自覚し、実際に行動に移していくことにほかならない。

勝てずとも、負けない戦いを引き受けていく。その覚悟を持って、動いていく。

2014年1月10日金曜日

福島でルワンダ

福島でルワンダに出会った。

震災前から福島で活動しているカンベンガ・マリールイズさんと知り合いになった。彼女は、福島に「NPO法人ルワンダの教育を考える会」を設立し、福島や日本とルワンダをつなぐ活動を通じて、ルワンダでの子供への教育機会の拡大を実践する活動を続けている。


うちの家族では、3年前に亡くなった父が留学生だったマリールイズさんをお世話していたほか、弟が国際交流の会を通じて彼女と懇意にしていた。それに加えて、叔父夫妻が今も活動のお手伝いをしているだけでなく、すでに70歳を超えた叔母が彼女のNPO法人の理事になり、1年半前にルワンダへ移住していった。

福島へ帰省中、ちょうど彼女らによるルワンダ写真展があり、のぞいてきた。そして、幸運にも、マリールイズさんご本人と会うことができた。面会をとても喜んだ彼女は、さっそく、ルワンダの私の叔母へ電話したそうだ。私もすぐに、叔母へメールを送ったところ、すぐに返信が来た。とても嬉しそうだった。

写真展では、ルワンダで子供に音楽を教える叔母の元気そうな写真が何枚も展示してあった。写真の中の叔母はとても生き生きとしていて、ルワンダの人々にいろいろとよくしてもらっている様子がうかがえた。叔母もこれまでに様々な経験を経てきているが、「もう日本へは帰らない」と言い切って1人で渡航し、ルワンダに残りの人生を捧げる覚悟なのだった。ルワンダでは、日本大使館やJICAの方々にいろいろとお世話になっている様子もうかがえた。叔母に代わって感謝の意を表する次第である。

そんなルワンダの叔母に「会いに行きたい」とメールで書いたら、「来なさい」と命令されてしまった。ルワンダは、内戦や紛争、虐殺といった過酷な経験を必死で乗り越えようと努め、その悪夢を引きずりながらも、懸命に新しい国づくりへ向かっている、アフリカでは近年最も注目される国の一つ。ルワンダほどではないのかもしれないが、かつて、インドネシアのアンボンやポソでイスラム教徒とキリスト教徒が憎しみ合い、殺し合いをした過去が重なって見える。

マリールイズさんは、東日本大震災の後も、ずっと福島に留まり、福島に寄り添いながらルワンダとつなぐ活動を続けてきた。そんなマリールイズさんと一緒になった叔母は、自分の残りの人生をルワンダの子供たちの未来づくりのお手伝いに捧げている。

そんな彼女らを見ていると、私がもやもやと頭の中で思っている活動もありだし、どんな活動でもありのような気がしてくる。大事なことは、何のために活動するか、ということなのだ。

余談だが、折しも、新年早々、NHKで故やなせたかし氏についての追悼ドキュメンタリーをみた。アンパンマンの主題歌の一節「何のために生まれて何をして生きるのか」「行け、皆の夢守るため」がなぜかじーんときた。

福島でルワンダ。世界は遠くにあるのではない。マリールイズさんと関わった人々は、ルワンダが自分の心の中に入ってくる。反対に、マリールイズさんの心の中には福島が入っている。そして、双方が双方を思い合い、対等な立場の仲間として、その輪を広げていく。フツーの人々どうしをつなげていくそんな関係が縦横無尽に広がっていけばと思う。

今年、本当にルワンダへ行って、叔母に会ってこようかな?

2014年1月5日日曜日

福島帰省2日目

福島帰省2日目。午前中に弟の車で福島の街中をドライブしたが、ビックリしたことが2点あった。第1に、旧市街に空き地が一段と増え、駐車場がさらに増えたこと。第2に、郊外は住宅建設ラッシュとなっていることだった。

福島市の人口は依然として減少傾向にあり、旧市街の虫食い現象はそれを象徴するが、その一方で、相当数の住宅が新たに建設されている。親と同居していた子供がそのまま親の家に住みたくない傾向が強いことと、原発事故の影響で避難を余儀なくされて仮設住宅に入っていた人々が住宅を購入するという傾向が強まっていることが背景にあるようだ。

午後は、既存メディアがなかなか伝えない話を独自メディアで発信する独立ジャーナリストの方にお会いして、色々とお話をうかがった。組織にとらわれない自由な立場から見た福島の現状について、様々な角度から話をうかがうことができ、大変有意義だった。

復興に伴う外部者による新たな搾取的状況の発生、官によるNPO活動への不信と官主導の事業実施へのこだわり、大学と住民との距離、などの話題が出た。その方の話からは、福島にどっぷり浸かることによる閉塞感のようなものがあるように感じたが、それは福島の現状に起因するある意味の複雑さから来るものかもしれない。

全国全ての都道府県に散らばった福島出身者の新しい地元に福島を自然に埋め込んでいく動きをつなげて、福島出身者による新たな一種のディアスポラ的ネットワークが今後の日本にとって新たな何かを作り出していくのではないか、といった希望も語り合えた。

福島にどのように取っかかりを作ることができるのか。まだ確証はないが、新しい地元を念頭に置いた複層的な地元学の展開可能性を考えることができるのではないか、という気がした。

2014年1月1日水曜日

2014年カタリスト宣言

2014年になりました。明けましておめでとうございます。

本年が皆様にとって素晴らしい年となりますように。
世界中の人々が昨年よりも幸せを感じられますように。


そのために、自分自身が、小さなことから具体的に行動すること。

1日最低1つ、誰かのために何かよいことを行なうこと。
誰かに助けてもらったら、2倍返し以上でその人またはほかの誰かを助けること。
1日最低1回、誰かに微笑をかけること。


ふるさと福島の人々や福島のこと、東北の人々や東北のことを忘れないこと。
日本をはじめ世界中の地元に生きる人々のことを深く思い続け、希望を追求すること。
地域と地域、人と人、モノとコト、世代と世代、喜びと喜び、幸せと幸せをつなぐ人になること。

プロフェッショナルな触媒、カタリストになること。